「コーヒーの歴史について解説してみましょう」ここでは珈琲の起源や発祥について書いてあります。

―見渡してみると“コーヒー”という飲み物は私達の生活に深く溶け込んでいます。では、私達はどれくらいコーヒーのことを知っているのでしょうか? コーヒーの実というものがあって、それを焦がして、砕いて、お湯で抽出する――それも1つの答えだと思います。ですが、その答えのなかには数々のエピソードがあり、エピソードを知ることで身近だったコーヒーが特別なもの...というのは大袈裟かもしれませんが、いつものコーヒーがちょっとだけ味わい深くなるはずです。エピソードを語る前に、まずコーヒーの起源や発祥の物語を紐解かなければなりません。

 

――遥か昔、そんな言葉が追いつかないほどの昔になりますが、コーヒーの歴史の1ページ目を開いていきます。

目次

コーヒーの起源。発祥や始まり。有名なエピソードとは?

コーヒーの始まり――起源には2つの有名なエピソードがあることをご存知でしょうか?

 

①カルディ伝説

ヤギ飼いの少年カルディが、山にヤギを連れて行ったときのお話。茂みのなかに実っていた赤い実を食べたヤギが興奮して跳ね回っていたので、カルディもその赤い実を食べたところ、楽しい気分になってヤギと踊った。

(ファウスト・ナイロニ「コーヒー論」1671年)

※カルディとヤギが踊っている姿を見た修行僧が、夜のお祈りの眠気覚ましに赤い実を利用するお話は「眠らない修道院」

 

②シェーク・オマール伝説

無実の罪(王女に恋をした罪というお話もあります)でイエメンのモカという町を追放されてしまったシェーク・オマールが山中で赤い実を見つける。それを食べたところ疲労が吹き飛んだというお話。※小鳥に導かれて赤い実を発見したという話や、この実をモカに持って行ったところ罪を許されたなど、シェーク・オマール伝説にはいろいろなバージョンがあります。

 

これらのエピソードは物語であり、史実ではありません。物語が書かれた17世紀半ばの書籍にも「物語・民間伝承である」と明記されています。

 

では、“本当のコーヒーの起源”とはいったいいつ頃の話なのでしょうか?

 

コーヒーを記した最古の文献「医学集成」とは?

コーヒーが登場する一番古い文献は9世紀、もしくは10世紀頃に書かれた「医学集成」という本です。この本はテヘラン(イランの首都)の医学者アル・ラーズィー(ラーゼス)が書き遺したものを弟子達が編集したと言われています。

ですが、これは“コーヒーが登場する最初の文献”であって起源、始まりとは言えません。

“アル・ラーズィーはコーヒー豆をどこで知ったのか?”という疑問点が出てきます。

それには、まず“コーヒー豆の植物としての起源”を知ることから始めましょう。

 

コーヒーノキが地上に誕生した年代からルーツを探る

コーヒー豆を実らせる木はコーヒノキという植物です。コーヒーノキの化石は発見されていませんが、近種のアカネ科の化石はアフリカで発見されています。

この化石が発掘された地層などから年代を割り出すと約2300万年前~530万年前頃のものとされ、コーヒーノキ自体は約1440万年前に誕生したのではないかと考えられています。.....小難しい話になってしまいましたが、噛み砕いて話すとコーヒーノキは人類が誕生する、ずっとずーっと前からアフリカに群生していたということです。そして“旧人類が誕生したとされる場所”もアフリカ大陸とされています。

 

この共通点はなにを示しているのでしょうか?

 

コーヒーノキを最初に利用したのは...?

現在のアフリカ、及び近郊には125種のコーヒーノキが群生しています。これだけの種類が何千年も前からあったとは考えにくいのですが、アフリカ大陸には古くからコーヒーノキがいくつも群生していたことが伺えます。また、アフリカ大陸に生息する鳥や猿、猫などはコーヒーノキの果実を食用としています。この2つから考えられることは“アフリカで誕生した旧人類もコーヒーノキの果実を食用にしていた”ということです。

 

つまり、“人類がコーヒーを生活(食用)に用いたのはアフリカ大陸からではないか?”と推察できます。また、旧人類は約20万年前にホモ・サピエンスに進化し、東アフリカに位置するエチオピアを居住区にします。そして約7万年前、新天地を求めユーラシア大陸など様々な場所に移動したのです。この移動の際、“人類はコーヒーノキを新天地に持っていったのでは?”とも考えられますが、コーヒーノキは栽培環境が限定されているので、仮に持っていったとしても育たなかったと思います。

 

それでは、なぜ9世紀に遠いテヘランに住むアル・ラーズィーがコーヒーを知ることになったのでしょうか?

 

奴隷貿易とコーヒーの関連性

エチオピアには「ケブラ・ナガスト」という1270年頃に書かれた歴史書があります。この本によると紀元前10世紀に一人の王子がエチオピアに渡りアクスム王国を建国したと書かれています。建国年自体は伝説の域を出ませんが、今から約2000年前のエチオピアにアクスム王国があったことは立証されています。アクスム王国は貿易都市として栄えるのですが、9世紀頃になると他勢力に押され次第に国力が低下してしまいます。この事態を重く見たアクスム王のデグナ・ジャンはエチオピア西南部エナリアで暮らす先住民族を捕らえ奴隷貿易を開始するのです。これによりアクスム王国は再び栄えたと記されています。

そして、9世紀と言えば先述したアル・ラーズィーの登場です。彼がコーヒーを知っていた有力な理由は二つ。

 

①アクスム王国がコーヒーを輸出していた可能性

②テヘランに強制連行された奴隷からコーヒーの存在を聞いた可能性

 

いずれも記録こそありませんが、アル・ラーズィーがコーヒーのこと書いた時期とエチオピアが奴隷貿易を始めた時期は符合します。この二つの事象がまったく無関係ということはないと思います。

それでは、コーヒーの記録が正確に書かれた正当な歴史を紐解いていきましょう。

 

 

15世紀から見えてくるコーヒー文化の広がり

①アフリカ大陸でコーヒーノキが誕生する(仮説)

②その後、エチオピアから世界に伝播される(仮説)

③最古のコーヒーの歴史は10世紀頃に書かれたアル・ラーズィー(の弟子)の「医学集成」(史実)

 

――ここまでを解説してきましたが、コーヒーの記録が再び文献で確認されるのは③から400年以上先の15世紀になります。舞台はイエメン。コーヒーは「カフワ」という名で広まります。カフワはコーヒーだけではなく“欲望を減退させる飲み物”という括りで、白ワインなどもカフワとされていました。しかし、新しい戒律により白ワインの飲用は禁止されてしまい、“カートという植物の葉で作るお茶”が代用品として飲まれていました。このカートという植物はコーヒーノキと同じで高地でしか育たず、さらに鮮度が重要でした。

当時の交通網を考えると、イエメン各地に新鮮なカートを行き渡らせるのは不可能です。そこで、新鮮なカートを入手できない人たちはアデンの法学者であったムハマンド・ジャマールッディーン・アッ=ザブハーニー(“シーク・ゲマレディン”という名で紹介されている場合もあります)に相談します。

ムハマンドは一時期「アジャム」というコーヒー文化が盛んな土地で過ごした経験から、カートの代用品としてコーヒーを人々に教えます。コーヒーはカートとは違い、長期保存が可能で覚醒作用もあるので、瞬く間にイエメン全土に広まったのです。

次項ではコーヒーが世界に広まった経緯を辿っていきましょう。

コーヒーは市民にも。世界初のカフェが登場

カートと違い、長期保存の利くコーヒーはイエメンだけではなく、1470年~1495年頃にはマッカやマディーナなどにも伝播します。はじめ、コーヒーを飲用していたのは宗教者だけでしたが、徐々に学生や学者、一般市民にも眠気覚ましとして浸透します。

 

そして1500年頃にマッカで「カフェ(カフェハネ)」が誕生します。先述しましたが、イスラーム圏では戒律によりアルコールが禁止されていて酒場などはありません。そういった背景がカフェやコーヒー文化をイスラーム圏全土に広める要因となったのです。

当時、大勢力を誇ったオスマン帝国は外貨獲得のために1544年頃、コーヒーの栽培、輸出に力を注ぎます。大量生産されたコーヒー豆は、イスラーム圏最大の市場と言われるバイト・アル・ファキーフという地区で取引され、カイロやイスタンブル、バクダード、レヴァントそして世界中に広まることになります。

――こうしてみるとコーヒー文化が世界中に発展したのは16世紀頃というのが分かります。この時代はコーヒーにまつわる事件が多く起こりました。

 

①1511年「マッカ事件」...宗教上の理由でマッカのハイール・べグという人物がコーヒーの飲用を禁止した事件。

②1534年「カフェハネ(カフェ)襲撃事件」...カフェハネで酒を飲んだり、政治批判をする者が増えたため、カイロの為政者たちがカフェハネを襲撃した事件。

③1633年「コーヒー禁止令」...これは17世紀になりますが、イスタンブルで発令された法案です。“コーヒーを飲んだら即死刑”という過激な法律でした。

 

このようにコーヒーの飲用を取り締まる運動が各地であったものの、それらはすぐに形骸化し、人々はコーヒー文化を後世に伝えたのです。さて、イスラーム圏での話しばかりになってしまいましたが、続いてコーヒー文化がヨーロッパに渡った経緯を解説していきます。

 

コーヒーはイスラーム圏からヨーロッパに

イスラーム圏で隆盛を誇ったコーヒー文化は17世紀に海を越えヨーロッパにも伝播します。ここではコーヒーがヨーロッパに伝播された3つのルートを紹介していきます。

 

①地中海ルート

当時、ヨーロッパとイスラーム圏を繋ぐ主要なルートは地中海でした。ヨーロッパ人は地中海を渡り、エジプトやレヴァントなどで取引をしています。16世紀、ヨーロッパで書かれた書籍にはコーヒーに関する情報が登場するので、いくつか紹介していきます。まず、1582年にドイツ人の植物学者レオンハルト・ラウヴォルフが「東方旅行の実録」という旅行記のなかで、レヴァントの住人がコーヒーを飲む様子を紹介しています。

これがヨーロッパで初めてコーヒーが紹介された本になります。さらに16世紀末以降ではフランスやイギリスでも地中海経由でコーヒーを手に入れたという記録が残っています。エピソードとしては1644年、フランスの商人であったピエール・ド・ラ・ロックがコーヒーを国内に持ち込んだという記録や、1672年のイギリスで解剖学者ウィリアム・ハーヴェイがコーヒーを飲んでいたことなどが挙げられます。

 

16世紀までの地中海ルートは大規模なコーヒーの輸入ではなく、少量の輸入だったと考えられています。大量にコーヒー豆を輸入し始めたのは17世紀中盤のマルセイユと言われています。

 

②東インド会社ルート

16世紀末にイギリスやオランダは海洋進出を強化するため“東インド会社”を設立します。1616年にはオランダの織物商のピーター・ファン・デン・ブルックはモカでコーヒー豆をアムステルダムに持ち帰ったと記録されています。

 

③パリルート

1669年にオスマン帝国の大使であるソリマン・アガがフランスに駐留します。彼は居住地を豪邸にし、そこに訪れた人々にコーヒーを振る舞ったのです。この行為がパリでコーヒーブームを起こすきっかけとなり、貴族から庶民までコーヒーを求めるようになったと記録されています。

 

このソリマン・アガという人物について少し詳しく解説すると、彼(オスマン帝国)はオーストリア侵攻のためにフランスに駐留します。これにはフランスと共同戦線を張るという目論見がありました。しかし、ソリマンはルイ14世に無礼を働いてしまい、わずか1年ほどで国外退去することになったのです。結局、彼は本来の目的は果たせず、フランスにコーヒーブームを巻き起こしただけという結果に終わりました。

 

このように17世紀はフランスでコーヒーブームが到来し、オランダにもコーヒー文化が伝播した時代です。次項ではイギリスで起きたコーヒーブームについて記述していきます。

 

17世紀イギリスではカフェが空前の大ブームに

イギリスはヨーロッパで一足早くカフェを広めたとされています。記録としては1650年にジェイコブというユダヤ人がオックスフォードでカフェを開いたのを皮切りに、1652年、パスカ・ロゼがロンドンで開いたカフェがコーヒーの大ブームを巻き起こします。

絶頂期(1680年代)には人口50万人ほどのロンドンにカフェが3000軒も立ち並んでいたと記録されています。このブームの裏には当時の社会情勢が起因していると指摘されているのです。17世紀半ばのイギリスは民主主義の始まりを迎えようとしていました。そのため、市民が政治談議をするスペースが求められ、カフェという存在はそんな市民のニーズに応えた存在でした。しかし18世紀に入るとコーヒー豆の価格高騰や紅茶の大量輸入によりイギリスでのコーヒーブームは衰退していったのです。

次項では17世紀~18世紀、ドイツでのコーヒー事情を解説していきます。

 

ドイツのコーヒー文化は他国とちょっと違う

フランスやイギリスでコーヒーブームが起きているさなか、ドイツでもコーヒーブームが起きていました。ドイツにコーヒーが浸透し始めたのは1670年頃と記録されているのですが、他国のコーヒーブームとは少々異なっていました。当時のフランスやイギリスでは「コーヒー=男性が飲むもの」という風潮があったのですが、ドイツでは女性が好んで飲むものと記録されています。

その記録を裏付けるのはバッハの「おしゃべりはやめて、お静かに」という曲です。

曲にまでなったドイツのコーヒーブームでしたが、外貨流出を恐れたフリードニヒ2世が1777年にコーヒー禁止令を発布します。これを受け代用品となったのがチコリコーヒーというものです。ドイツのコーヒー代用品の歴史は禁止令が解除されたあとも、そして今、現在でも続いています。

続いてはアメリカ大陸にコーヒーが伝播した歴史を解説していきます。

 

アメリカにコーヒーが上陸した年は謎?

コーヒーがアメリカに伝播した正確な記録は残っていません。“1607年にキャプテン・ジョン・スミスがアメリカに初めてコーヒーを伝えた”という話をよく聞きますが、これは、ジョン・スミスがコーヒー豆をアメリカに持ち込んだわけではなく、コーヒーの知識を伝えただけなのです。

アメリカに残っている古いコーヒーの歴史は1670年代。アメリカ北東部、ニューイングランドにコーヒーが伝わり、アメリカ初のカフェが誕生します。18世紀になるとボストン、ニューヨークにもカフェが立ち並び、アメリカ市民の憩いの場所としてコーヒーが広まります。

そして1773年のボストン茶会事件がきっかけで、紅茶の不買運動が起こりアメリカのコーヒー消費量は跳ね上がったのです。

ボストン茶会事件から約20年後のフランスで一人の英雄が活躍します。ご存知「ナポレオン・ボナパルト」です。ナポレオンの“ある政策”がヨーロッパのコーヒー文化に影響を与えたことはご存知でしょうか?

 

ナポレオンが作った?進化するコーヒー文化

フランス革命(1787年~1799年)で活躍したナポレオンはヨーロッパ大陸を支配下に置きます。当時、ナポレオンと敵対していたのは産業革命中だったイギリス。

ナポレオンは1806年、イギリスに経済的ダメージを与えるため「大陸封鎖令」を発令します。この政策は“海外との輸出入を全て禁止する政策”なのですが、宿敵イギリスにはそれほどダメージを与えられなかったどころか、ヨーロッパ全体が物資不足に陥ってしまい、市民は困窮してしまうのです。

 

特に不満が多かったのは「コーヒー」と「砂糖」が不足していたことと言われています。大陸封鎖令から9年でナポレオンはワーテルローの戦いで破れ失脚、1821年にその生涯を閉じます。ナポレオンの死後、大陸封鎖令が解除されたヨーロッパでは、コーヒーを待ち望んでいた人も多く、第一次コーヒーブームがやってきます。

当時、ヨーロッパはウィーン体制という平穏な国際秩序の真っ只中で、家族団欒や友人達とカフェでくつろぐといったビダーマイヤースタイルがコーヒーブームの一助を担ったと言われています。

また、この頃、カフェではなく自宅でコーヒーを淹れる人も多くなり、オノレ・ド・バルザックやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンらもコーヒー豆の産地や抽出方法にこだわりを持っていたと記録されています。そして抽出器具は発展したのもこの時代です。

ドリップ式の原型とされる「ドゥ・ベロアのポット」やフラスコと気圧を用いてコーヒーを抽出する「コーヒーサイフォン」も1835年にフランスで特許の申請がされています。

 

ナポレオンがコーヒー文化の進化に携わったわけではありませんが、彼が施行した大陸封鎖令により抑圧されてきた市民のコーヒー熱は、19世紀のヨーロッパで大きく飛躍します。そう考えると、ナポレオンもあながちコーヒー文化とは無関係とは言えないのではないでしょうか。

 

ちなみにナポレオンは大のコーヒー好きとして知られ、病床でも「コーヒーが飲みたい」と何度も側近にこぼしていたという記録が残っています。

 

ウィーン体制により安息の日々を送っていたヨーロッパも「1848年革命」で再び不穏な情勢へと転化していきます。これに伴ない第一次コーヒーブームも下火になるのですが、すぐさま第一次とは比べられないほどの大きい「第二次コーヒーブーム」が到来します。ヨーロッパだけではなく世界をも巻き込んだ第二次コーヒーブームとはどのようなものなのでしょうか?

新たな階級の誕生や文明の進化に影響されるコーヒー史

第一次コーヒーブームでコーヒーを楽しんでいたのは中産階級や貴族階級の人々でした。ですが、1830年以降のヨーロッパは産業革命が発展した時代。ここで誕生したのは労働者階級という存在です。労働者階級の人々は疲れや眠気を紛らわすため大量のコーヒーを求めます。

一方、1870年頃のアメリカでも工業化が進み、労働者階級はどんどん増加していきます。それに伴ないコーヒーを求める人はヨーロッパだけではなく世界全体に広がるのです。これが第二次コーヒーブームの始まりです。

また、第二次コーヒーブームが到来する少し前にアメリカで焙煎技術が向上したことも、ブームを後押ししたのではないかと考えられています。例を挙げると1846年、ボストンで開発された「引き出し式焙煎機」や1864年の「バーンズ焙煎機」などコーヒー豆を大量焙煎の出来る機器が開発されました。

さらにジャマイカでは1845年に「水洗い式精製」という技術が確立されました。これは収穫した果実からコーヒー豆を取り出す作業の速度を著しく向上させたものです。また、19世紀後半に登場した「鉄道」という輸送網もコーヒーを港まで大量に運ぶことを可能にしました。これにより世界中にコーヒーが行き渡り、値段も下がったことでコーヒーは“一部の国の嗜好品”から“世界の普及品”へと変化していきました。コーヒー豆が大量に作られ普及品になるということは、コーヒー豆の価格下落にも繋がります。この価格下落により、のりに乗っていたコーヒー業界は最大のピンチを迎えることになったのです。次項では19世紀後半から20世紀に掛けてのコーヒーの歴史を振り返ってみましょう。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

19世紀中盤、やっと日本にコーヒーが上陸します(特例として1776年、1804年に個人がコーヒーを飲んだという記録があります)。日本がコーヒーの輸入を正式に始めたのは1858年になります。

当時は市民向けではなく、居留地の外国人向けに取引されていましたが、1870年代からは日本人もコーヒーを飲み始め、1888年には日本初の喫茶店と呼ばれる「可否茶館(かひさかん)」がオープンします。また、1901年にシカゴ在住の日本人科学者カトウ・サトリがアメリカ初のインスタントコーヒーの特許を取得しています(世界初の特許はニュージーランド-1889年)。

コーヒーの知られざる歴史。日本にコーヒーが広まった理由とは?

ブラジルでのコーヒー大暴落

19世紀、コーヒーブームの到来によりハイチやブラジル、コスタリカといった国々がコーヒーの生産に尽力を注ぎます。その結果、コーヒー豆が需要を越えてしまい、生産過多になってしまうのです。19世紀後半にはコーヒー豆の価格は大暴落してしまい、世界のコーヒー豆の80%を担っていたブラジルの農園は窮地に立たされます。この事態を重く見たブラジル政府は1906年に「ヴァロリゼーション」という処置をとります。

この政策は政府が農園からコーヒー豆を一時的に買い上げ、輸出量を調整するというものなのですが、農園のあまりにも多いコーヒー豆を買い上げることができずに破綻してしまうのです。そこで、ブラジル政府が最後に助けを求めたのは“あるドイツ人”でした。

 

アメリカ最後のコーヒー王

ブラジルのコーヒー農園を救うため、ヴァロリゼーションを施行したブラジル政府でしたが、政策は資金不足により頓挫してしまいます。そこで、ブラジル政府が助けを求めたのはドイツ人の「ハーマン・ジールケン」という人物です。

彼はやり手のビジネスマンだったのですが、悪い評判も多い人物でした。

ブラジル政府から相談を受けたジールケンは資金力や人脈を駆使して銀行から巨額の融資を受けます。

その融資金を使いブラジル政府と共同出資という形でコーヒー豆を安価で買い占めたのです。

 

ジールケンはブラジル政府が所有したコーヒー豆も“担保”という名目で全て預かり、ニューヨークやハンブルクの倉庫に保管します。そして、コーヒー豆の流通量を巧みに操作して、アメリカを始めとしたコーヒー消費国の市場価格を三倍近くまで吊り上げたのです。

その結果、ジールケンは莫大の利益を上げ「アメリカ最後のコーヒー王」の異名を取りました。ジールケンはその後ビジネスで一度も失敗することもなく、1917年に70歳の生涯を終えます。ジールケンによるコーヒー豆の独占や価格操作によって高騰したコーヒー豆でしたが、あることがきっかけで大暴落してしまいます。次項ではその原因を解説していきます。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

日本初の喫茶店「可否茶館」は時代を先取りし過ぎたためか、わずか4年(1892年)で廃業してしまいます。1908年になると作家の木下杢太郎や北原白秋が「日本に西洋情緒を取り入れたい」と話し、この考えに啓発された洋画家の松山省三が1911年3月、銀座に「カフェープランタン」を開業します。

また、8月にはカフェーライオンがオープン、12月にはカフェーパリウスタと続々と日本にカフェが誕生しました。

 

アメリカのコーヒーアジテーション「狂騒の20年代」

1914年に勃発した第一次世界大戦もコーヒーの歴史に無関係ではありません。

戦争の影響によりヨーロッパでの輸出入が停滞してしまうのです。

特にコーヒーの輸入を担っていたハンブルク、アムステルダム、ルアーヴル、アントワープの港は戦地のど真ん中ということもあり、輸出国は自国の船を出しませんでした。

これにより、一番損害を受けたのは主に高級豆をドイツに輸出していた中米です。

 

高級なコーヒー豆の価格を下げるほかありませんでした。この事態に上手く便乗したのはアメリカ。

それまでアメリカのコーヒー業者はブラジル産の安いコーヒー豆ばかり買い入れていましたが、中米の高級豆が安価になったのを機にこれを大量に買い入れたのです。

品質の良いコーヒーを安価で飲めるようになったことや戦争が終わった(1920年)ことも後押しして、アメリカでコーヒーブームが到来します。当時、アメリカでは禁酒法が施行され、国民はアルコールの代用品としてコーヒーを飲むようになりました。

さらに、コーヒーの飲用を推進するコマーシャルや映画を製作し消費を促したのです。

 

アメリカではこのコーヒーブームを「狂騒の20年代」と呼んでいます。このブームに乗りたいブラジルは過去、ジルーケンが行ったようにコーヒー豆を独占して価格操作を行うのですが、1929年「暗黒の木曜日」

――いわゆる世界大恐慌が起きてしまいます。恐慌によりコーヒーの消費は激減し、コーヒー会社も次々と倒産してしまいます。そして、コーヒー豆は2度目の大暴落の一途を辿ることになります。ブラジルは大量に抱えてしまったコーヒー豆の在庫をなんとか消費しようと、スイスのネスレ社に長期保存可能なインスタントコーヒーの開発を依頼します。これが「ネスカフェ」の起源です。しかし、ブラジルは有り余るコーヒー豆の在庫を完全に消費することはできず、1931年から数年の間でコーヒー豆を468万トンも焼却処分しています。

戦争は市場に大きな影響を与えます。第二次世界大戦も例外ではなく、コーヒー市場に大きな影響を与えました。次項では第二次世界大戦とコーヒーの関係性を紐解いていきます。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1930年頃の日本ではカフェー(カフェ)が全盛期を迎えていました。

当時の日本のカフェーは“女給と酒がメイン”といった水商売の色が強かったこともあり、風紀を乱すという理由で1929年に「カフェー・バー等取締要項」が敷かれます。これにより、1930年代前半には“女給を置かない”“酒を飲まさない”“純粋にコーヒーを楽しむ”スタイルの「純喫茶」が数多く出店しました。純喫茶の台頭により日本でもコーヒー豆の産地に一層こだわりを持つようになり、1937年にはブルーマウンテンといった高級豆の輸入も始めました。

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アメリカのコーヒーの品質が下がった理由

1939年、第二次世界大戦が開戦します。これにより、アメリカのほとんどのコーヒー豆が戦地に送られてしまい、国内では配給制となりました。

アメリカ市民は少ない豆を節約してコーヒーを作るので味は当然薄くなります。

 

これが「アメリカのコーヒーは薄い=アメリカンコーヒー」と呼ばれる理由の一つです(※アメリカンコーヒーという名称は日本人しか使いません)。さらに、世界恐慌の影響で焙煎会社の合併や買収が始まると、コーヒー豆の“浅煎り化”の流れがアメリカ全土に広がります。浅煎りは深煎りに比べると、燃焼時間が少ないので豆の重量も減りません(燃料代も安い)。恐慌以降、どの企業も危機感を感じコストパフォーマンスを重視していたのです。「アメリカのコーヒーが薄い」という理由は歴史的背景が大きく関係しています。

 

“コーヒーの大衆化”、“狂騒の20年代”、“恐慌による豆の大暴落”そして“アメリカのコーヒーの浅煎り化”――19世紀末から始まり1960年代までのコーヒー文化の流れを“ファーストウェーブ”と呼ぶのです。

戦後、これまで流動的であったコーヒー市場の値動きを安定させるため「国際コーヒー協定(ICA)」が開始されます。次項ではこの協定を詳しく解説していきます。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1938年に制定された国家総動員法によりコーヒーは輸入規制の対象となります。追い討ちを掛けるように1944年、コーヒーは完全に輸入停止となり、日本のコーヒー文化は一時期終焉を迎えました。

 

コーヒーの品質向上を!国際コーヒー機関(ICO)の発足

コーヒー(コーヒーノキ)の栽培はとても繊細で天候や環境に大きく左右されます。1954年に起きたブラジルの大霜害が発生し、コーヒー豆の生産量が大幅に下落してしまいます。

 

これによりブラジルのコーヒーの価格は高騰しますが、アフリカ産のロブスタ種の台頭により一気に値下がりしてしまうのです。コーヒー豆の値動きに頭を悩ましていたアフリカを始めとする中南米の国々は1962年「国際コーヒー協定(ICA)」を結び、コーヒー豆の価格を安定化させることにしました。

 

この協定に基づき正当な価格で取引きされるコーヒーを「コモディティコーヒー」と呼びます。1963年には多くの国がこの協定に調印し、ICAを管理・運営する「国際コーヒー機関(ICO)」が設立されました。ICOに加盟している国は「生産国」と「消費国」に分けられ、消費国は非加盟生産国からの輸入を禁止するなどの規則が設けられました。

これにより、価格は安定しコーヒーは「国際商品協定の優等生」と呼ばれ第二次(68年)、第三次(76年)、第四次(83年)と協定の更新が行われています。協定によりコーヒー豆の輸出入が安定すると、次は高品質なコーヒーに目が向けられます。そのコーヒーこそ“スペシャルティコーヒー”です。次項ではスペシャルティコーヒーに触れていきましょう。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1944年に完全にコーヒー豆の輸入が停止した日本でしたが、1950年に輸入再開となります。この時期にUCCやキーコーヒーといった企業がコーヒー産業に参入し、喫茶店も増加していきます。また、1953年には「全日本コーヒー協会」が発足。さらに1964年に新市場国としてICAに加盟します。翌年には三浦義武氏が缶コーヒーを開発するなど日本のコーヒー文化が一気に開花した時代です。

 

サードウェーブ到来! スペシャルティコーヒーの誕生

ノルウェー出身のエルナ・クヌッセンという人物は味覚や嗅覚の鋭さを買われ、コーヒーやスパイスを扱うカリフォルニア州の会社に入社します。彼女はその後、コーヒー鑑定士の資格を取得し1974年に刊行された「ティー&コーヒー・トレードジャーナル」という雑誌内で“スペシャルティコーヒー”という言葉を世界で初めて使いました。彼女はスペシャルティコーヒーをこのように唱えたのです。

 

“Special geographic microclimates produce beans with unique flavor profiles.”

ー特別な地理や条件が、独特で香気のあるコーヒーを生むー

 

さらに彼女は1978年に開かれた国際コーヒー会議の講演でもスペシャルティコーヒー論を唱え、アメリカでは徐々にスペシャルティコーヒーという概念が広がっていきます。そして、1982年アメリカ・スペシャルティ協会が設立されたのです。

 

協会が発足した理由は品質の高い豆を協会全体で大量に買い付けられるということと、当時ICAで撤廃されていたコーヒー豆の輸出入制限を継続させる発言力が欲しかった、などが挙げられます。スペシャルティコーヒーが誕生し、次なるコーヒーの歴史にセカンドウェーブが到来します。次項ではセカンドウェーブについて解説していきます。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1970年代の日本は高度経済成長期の好景気が下降していき“脱サラ”という言葉が流行語になります。さて、脱サラした人がなにを始めるのか?多くの人が喫茶店を始めたのです。

これは「喫茶店くらいなら自分でもできる」と思った人が多かったからと言われています。この風潮は長く続き、1981年になると日本国内の喫茶店の数は15万軒、うち個人事業主の割合は13万軒という統計が取られています。

 

スターバックスコーヒー始まりの話

カフェの歴史を語る上で欠かせないのはスターバックスコーヒー。スタバが創業したのは1971年なのですが、当時はカフェではなく自家焙煎した豆を販売する小売店でした。その店にハワード・シュルツという人物が入社します。彼は1984年、店舗内にバールを併設したいと発案します。

 

元々、自家焙煎をしていたコーヒー豆の評判が良かったのも手伝って、シュルツの案は大成功を収めます。彼はこの方向性でどんどん店舗を増やそうと提案します。

ですが、経営者の一人であるジェリー・ボールドウィンはあくまで自家焙煎にこだわりたいという理念があり、シュルツと意見が分かれてしまうのです。このことが原因でシュルツは独立し、1986年「イル・ジョルナーレ」というエスプレッソ専門店を開きます。

 

一方、ジェリー・ボールドウィンは経営難に陥ってしまい、1987年に「スターバックス」をシュルツに売却します。シュルツはイル・ジョナーレの看板を外し、屋号をスターバックスとしました。これが現在のスターバックスの始まりです。

 

 

80年代のアメリカではイタリアブームが到来しており、バールのような気軽に立ち寄れるカフェが数多く開業し始めます。

スタバの隆盛はこの時流に上手く乗ったとも言えるでしょう。

 

また、エスプレッソにも関心が集まったことで、人気のローストは浅煎りから深煎りへと変化していったのです。この時代の流れを“セカンドウェーブ”と呼びます。

 

スペシャルティコーヒーの誕生やスターバックスを始めとする“シアトル系カフェ”の台頭で順風満帆なように見えるアメリカのコーヒー業界ですが、この時代アメリカのコーヒー業界を揺るがす“危機”が迫っていたのです。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1980年代後半の日本はバブル景気の真っ只中でした。ですが、どの会社も好景気に浮かれていたわけではありません。この時代、喫茶店経営はかなり苦しく、廃業する店が続出しました。

 

原因として、バブル景気の影響で地価が高騰しテナント料を支払えなくなる経営者が多くいたということや、円安のため輸入品であるコーヒー豆の原価が高くなったことなどが挙げられます。

 

第1次、第2次コーヒー危機とは?

アメリカでスペシャルティコーヒーの文化が広まると、淘汰されるのは低品質のコーヒー豆です。ICO内での取り決めにより低品質の豆を大量に輸入しなければならなかったアメリカ(※1)は1989年ICOに抗議します。これを受けICOは輸出制限を撤廃するのですが、コーヒー生産国は撤廃を機に在庫を投売りしてしまうのです。

それがきっかけとなりコーヒー豆の価格は半値にまで大暴落します。これが「第一次コーヒー危機」です。

 

また1993年には交渉の折り合いがつかずアメリカはICOを脱退します。そして90年代末「第二次コーヒー危機」が到来するのです。これはコーヒー豆を栽培する農園が増加し、生産過多が原因の大暴落になります。

 

この時期メキシコやブラジルでも新興産地が増加しましたが、なかでも目覚しい成長を遂げたのはベトナムの農園です。

90年代以前のベトナムのコーヒー豆の生産量は微々たるものでしたが、フランスやIMFの資金援助により効率よくコーヒー豆を生産します。その結果、1999年にはブラジルに次ぐ世界第2位の生産地になったのです。このような背景が原因で需要と供給のバランスが崩壊し、コーヒー豆は2002年に底値を記録しました。

 

(※1).ICOはコーヒー豆の需給バランスと価格安定のため、加盟国それぞれに輸出入割り当てを決定します。つまり、「○国は○○トン輸出できる」「×国は○○トン輸入できる」と定めたのです。この決定によりアメリカはブラジルのコモディティコーヒーを大量に購入しなければなりませんでした。けしてコモディティが低品質というわけではありませんが、スペシャルティコーヒーの台頭などによりアメリカ人が高級志向になったこともICOと衝突した原因でしょう。ちなみに2005年、アメリカはICOに復帰しています。

 

~この時代、日本でのコーヒー文化~

日本にスペシャルティコーヒーが認知され始めたのは1987年頃と言われています。この頃、「全日本グルメコーヒー協会」が発足しスペシャルティコーヒーを日本に広めました。

 

1991年3月にバブルが崩壊します。リストラされた人や就職氷河期を迎える人、共働きを余儀なくされる主婦が増加し、これを機に喫茶店を経営する人も増加していきます。

 

また、1996年に銀座でスターバックスコーヒーが上陸します。これを受け日本はカフェブームとなり多くのコーヒーメニューが生まれました。そして2003年に全日本グルメコーヒー協会から日本スペシャルティ協会(SCAJ)が発足し、さらにスペシャルティコーヒーを国内に浸透させていったのです。

 

ベスト・オブ・ブラジル開催前夜

90年代中盤、日本がカフェブームで沸くなか、世界では第1次・2次コーヒー危機の真っ只中で数々の打開策が講じられていました。その一つが1997年にICOと国際貿易センターが提案した「グルメコーヒーの可能性開発プロジェクト」です。

 

このプロジェクトは高品質のコーヒー豆を生産してプレミアム価格で販売できるか否かを実験するもので、生産国はブラジル、エチオピア、ウガンダ、ブルンジ、パプワ・ニューギニアとし、消費国はアメリカ、イタリア、日本と想定され生産がスタートしました。そして1998年にプロジェクト仕様のコーヒー豆がブラジルから出荷されるのですが、受け取ったアメリカは「味が値段に見合わない」と買取りを拒否したのです。

 

そこでICOはコーヒー豆の採点形式をSCAA方式に変更し、1999年にブラジルコーヒーの品評会「ベスト・オブ・ブラジル」を開催しました。これにより、上位入賞したコーヒー豆(カップ・オブ・エクセレント)はプレミアム価格で販売することが可能となり、グルメコーヒーの可能性開発プロジェクトは大成功となったのです。

 

90年代というのは日本のコーヒー文化が世界のコーヒー文化と合流した時代でもあります。そして、いよいよ現代――21世紀に突入したコーヒー文化はどのような進化を遂げたのでしょうか。サードウェーブが到来した“コーヒーの今”を解説していきます。

 

スターバックスの復活劇の裏ではサードウェーブが迫っていた

90年代に一世を風靡したスターバックスコーヒー。1996年の日本出店を皮切りに、99年には韓国、中国へとアジア進出を果たします。そして21世紀、カフェ業界の王様となったスタバにも暗雲が立ち込めるのです。

 

ことの起こりはスターバックスコーヒーCEOのハワード・シュルツが退任した2000年に遡ります。

スタバは新たに新店舗を増やし続けた結果、コーヒーの品質を著しく下げてしまいます。

また、2007年には世界金融危機の余波を受け倒産寸前にまで追い込まれてしまうのです。そして2008年に事態を重く見たシュルツが復帰します。彼は全米のスターバックスを全店舗休業させ、従業員の再教育に取り組みます。

 

その結果、2011年のスターバックスは奇跡的とも言える業績回復を見せたのです。

 

――2000年代のスターバックスの歴史を振り返りましたが、シュルツ退任から始まったスタバの凋落はコーヒー業界に新たな“波”を呼ぶことになります。

それが“サードウェーブ”です。サードウェーブとは“マニュアル化され面白みのないシアトル系カフェではなく、コーヒー豆にこだわりを持ったバリスタが手作業でコーヒーを淹れる”ことに注目しようという流れです。

また、ジャーナリストのミッシェル・ワイスマンは“直接コーヒー農家に赴き、特定のコーヒー豆を買い付ける(ダイレクト・トレード)”というコーヒー業者の動きもサードウェーブだと提唱します。このサードウェーブの波に上手く乗ったと言われるのは小規模自家焙煎店としてオープンした「ブルーボトルコーヒー(2002年)」です。

 

時流に乗ったブルーボトルコーヒーは世界各地に店舗数を増やし、2015年には日本進出を果たします。

もちろん、ブルーボトルコーヒー以外にもサードウェーブの影響を受けたカフェは多く存在します。日本国内では「堀口珈琲」や「丸山珈琲」がいち早くサードウェーブの流れを取り入れたと言われています。

また、世界的に見て日本のコーヒー文化は“時代遅れ”という風潮がありましたが、2012年に作家のメリー・ホワイトが「キョート・コーヒー」や「コールド・ブリュー」といった日本独自の水出しコーヒーを紹介したところアメリカで大流行となります。

 

じつは、まだサードウェーブの定義は完全に定まっていないのですが、セカンドウェーブと比較してコーヒーやカフェの文化が大きく変化しているのは紛れもない事実です。

 

激動の21世紀。コーヒーはどのように歴史を刻んでいくのでしょうか。

 

コーヒーと共に歩こう

何世紀も昔、地上に現れたコーヒーが歴史という物語を紡ぎ、今も世界中で愛されています。

ときには政治利用され、またときにはトレンドに取り入れられもしましたが、本質である“美味しさ”はどの時代でも人々を惹きつけました。

これより先、フォースウェーブ、フィフス、シックスとコーヒー文化は発展を遂げると思います。

 

その文化――歴史に触れ“美味しいコーヒー”を飲むことができればそれ以上の幸せはないでしょう。

 

 

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